調査がてら、今日も山に出かけました。
ススキの草原で美しく咲いていたのはナリヤラン。
西表島と石垣に限定分布するカトレアに似た大型のランです。こんなのも絶滅危惧ⅡB類。
比較的立ち入りやすい草原などに生え、なおかつ目立つ為、もって行かれ易いのでしょうか。あるいは環境の変化が激しくなった?
たしかに昔と違って、ナリヤランの生息地である草原が草原としてあり続けるのは難しい時代です。大体そういう場所は農地の一部で、ともすれば持ち主が思い出したかのようにトラクターをかけてあっという間に畑に戻してしまいます。そして数年なにかと作った後、また草原に・・・。
そういうことはあるのでしょうね。でも、この花自体、もともと少ないのかも。きっとそうでしょう。
「ナリヤ」とはなんとなく可愛らしい響きですが、これは西表島のすぐそばにある離島、「ウチパナリ」(内離れ島)の成屋村に由来します。こちらは、僕の家から眺められる位置にあるのですが、ここに沢山群生していたが故のナリヤランという命名。しかし現在、この廃村跡に行っても、見かけません。
そもそも、ナリヤランという名前が付いたのは何時頃かと思い至れば、植物の分類が発展したのは明治以降の話で、牧野富太郎が活躍した大正、昭和初期に沢山の植物に新しい名前が付けられています。沖縄などではやはり本土よりも遅かったかも知れません。昭和初期ぐらいでしょうか。
そしてその時代、成屋村はあったのか?
答えはNOなんですね。
もう一つ、成屋村で有名なのは「石戸少年の石炭発見譚」。家の周りの石垣の下積み石に焚き火の火が燃え移ったというお話で、これは琉球王朝時代。
江戸時代の末にはペリー一行の石炭燃料確保を目的とした地質調査に対し、王府は「石炭のあるところは樹木を植え付けて隠すよう」というお触れを島の人々に出しています。
この時代には当然村はありました。西表の村々は稲作を基本として成り立っていましたから、現在、草原となっている島の中心部の低地は、一帯が全て沼田でした。
この時代にランがあったのか、どうかは分かりませんが、草原の規模は小さかったでしょう。おそらくは山裾など、わずかな利用しがたい土地ぐらいで、あったとすれば、そこにナリヤランは生えていたのでしょう。
しかし、明治19年、三井物産が内離島全島を借地し、炭鉱経営に乗り出して以降、成屋一帯は炭鉱村と化します。おそらく、この時代以降、成屋村にいた原住の人々は対岸の祖納村に移り住み始めたのではないかと想像されます。本当の意味での廃村はこの時期だったのかも知れません。
当然、かっての田んぼは放置され、草原化していく。一方で、炭鉱経営会社はいくつも変わりながらも、大正時代に内離島の炭鉱は最大の賑わいを見せ、多くの炭鉱夫がよそから成屋村にやってきて、成屋村自体は大きくなっていく。
そして昭和に入り、内離島の炭鉱経営がうまくいかなくなるとともに新しい成屋村も姿を消していったのです。
炭鉱夫たちが暮らした家々は崩れ落ち、朽ち果てて、やがて一帯は草原化します。乾燥を好むナリヤランはむしろ田んぼの跡地よりもこうした場所に増えたはずです。
植物学者が島に入った時、ギラギラした太陽の下、群生したナリヤランは、無数に咲き誇っていたでしょう。あたかも往年の成屋村の繁栄を偲ぶかのように。
花の脇にはまだ朽ち果てた建材などが転がっていたかも知れません。しかし、その大きく美しい花の豪奢な様とを較べれば、それはあまりにも諸行無常を感じさせる風景だったに違いありません。
あくまで想像のお話でした・・・。