年に一度は見つけます。
熱帯系のキノコ、アラゲウスベニコップタケ。
この仲間には黄色の個体もありますね。
そしてキノコには男性器チックなものは数あれど、こんなに女性
まあ、いずれにしてもその卑猥さがマニアの心をぐっと鷲
調査がてら、僕らがまったく行くことのない西表島東部の仲間川、中流域、斜面に見られるヤエヤマヤシ群落に行ってみました。
ここは国の天然記念物となっています。
アクセスには大富林道入り口より林道を2時間。足元定かでない山道を1時間半。
途中、リュウビンタイの森を横切り、群生する足元のランを踏まないように気をつけながら、ぶら下がるモダマの蔓を横目にガジュマルの木に這い上がらなければ通れないような場所もあり、なかなか大変でした。
延々3
面白いのは、これだけ10メートルを越えるような大木が並んでいても、やっぱりヤシなので、葉が少ない。梢もなければ、枝もない。
だから、山の中としてはちょっと考えられないぐらい明るいんです。
晴れた日にはとても美しい光が差し込み、清清しい林内です。
ここはハワイだろうか?と思うような空気で、そこが青い海に面したビーチではなく、西
地表近くは気根がフラのバウスカートのように綺麗に広がって、根元を覆っています。なかなか可愛いですよ。
同じ天然記念物、石垣島米原のヤエヤマヤシ群落と違い、一切整備されていない自然その
調査がてら、今日も山に出かけました。
ススキの草原で美しく咲いていたのはナリヤラン。
西表島と石垣に限定分布するカトレアに似た大型のランです。こんなのも絶滅危惧ⅡB類。
比較的立ち入りやすい草原などに生え、なおかつ目立つ為、もって行かれ易いのでしょうか。あるいは環境の変化が激しくなった?
たしかに昔と違って、ナリヤランの生息地である草原が草原としてあり続けるのは難しい時代です。大体そういう場所は農地の一部で、ともすれば持ち主が思い出したかのようにトラクターをかけてあっという間に畑に戻してしまいます。そして数年なにかと作った後、また草原に・・・。
そういうことはあるのでしょうね。でも、この花自体、もともと少ないのかも。きっとそうでしょう。
「ナリヤ」とはなんとなく可愛らしい響きですが、これは西表島のすぐそばにある離島、「ウチパナリ」(内離れ島)の成屋村に由来します。こちらは、僕の家から眺められる位置にあるのですが、ここに沢山群生していたが故のナリヤランという命名。しかし現在、この廃村跡に行っても、見かけません。
そもそも、ナリヤランという名前が付いたのは何時頃かと思い至れば、植物の分類が発展したのは明治以降の話で、牧野富太郎が活躍した大正、昭和初期に沢山の植物に新しい名前が付けられています。沖縄などではやはり本土よりも遅かったかも知れません。昭和初期ぐらいでしょうか。
そしてその時代、成屋村はあったのか?
答えはNOなんですね。
もう一つ、成屋村で有名なのは「石戸少年の石炭発見譚」。家の周りの石垣の下積み石に焚き火の火が燃え移ったというお話で、これは琉球王朝時代。
江戸時代の末にはペリー一行の石炭燃料確保を目的とした地質調査に対し、王府は「石炭のあるところは樹木を植え付けて隠すよう」というお触れを島の人々に出しています。
この時代には当然村はありました。西表の村々は稲作を基本として成り立っていましたから、現在、草原となっている島の中心部の低地は、一帯が全て沼田でした。
この時代にランがあったのか、どうかは分かりませんが、草原の規模は小さかったでしょう。おそらくは山裾など、わずかな利用しがたい土地ぐらいで、あったとすれば、そこにナリヤランは生えていたのでしょう。
しかし、明治19年、三井物産が内離島全島を借地し、炭鉱経営に乗り出して以降、成屋一帯は炭鉱村と化します。おそらく、この時代以降、成屋村にいた原住の人々は対岸の祖納村に移り住み始めたのではないかと想像されます。本当の意味での廃村はこの時期だったのかも知れません。
当然、かっての田んぼは放置され、草原化していく。一方で、炭鉱経営会社はいくつも変わりながらも、大正時代に内離島の炭鉱は最大の賑わいを見せ、多くの炭鉱夫がよそから成屋村にやってきて、成屋村自体は大きくなっていく。
そして昭和に入り、内離島の炭鉱経営がうまくいかなくなるとともに新しい成屋村も姿を消していったのです。
炭鉱夫たちが暮らした家々は崩れ落ち、朽ち果てて、やがて一帯は草原化します。乾燥を好むナリヤランはむしろ田んぼの跡地よりもこうした場所に増えたはずです。
植物学者が島に入った時、ギラギラした太陽の下、群生したナリヤランは、無数に咲き誇っていたでしょう。あたかも往年の成屋村の繁栄を偲ぶかのように。
花の脇にはまだ朽ち果てた建材などが転がっていたかも知れません。しかし、その大きく美しい花の豪奢な様とを較べれば、それはあまりにも諸行無常を感じさせる風景だったに違いありません。
あくまで想像のお話でした・・・。
今日は午前中、デスクワーク。
午後からはいそいそと海に出かけました。去年ぐらいからはまり始めたカヤックフィッシング。シーズンオフになってからは、思う存分でもないけれど、ゆっくり遊べます。
とは言え、大人2人、小食の5歳長女。離乳食の次女という家族構成の我家では、魚を沢山釣ってくると逆に怒られる。
本当は昨日も行きたかったのだが、朝、竿を準備しているのを見た妻から、「魚、いらんよ・・・」と冷たい一言。「いいサイズの冷凍庫にまだ5匹ある。」こう言われては行けません。
しかし、昨晩は、そのいいサイズの魚(カーシビ&タマン)が空揚げのうえ、キノコとネギの餡かけで食卓に出てきたので、「よし、明日は釣りに行って2匹、補充しよう」そう思ったのです。
さて、さて、我家から20メートル。通称「フク(長女の名前)んちの海」にカヤックを下ろし、早速、沖へ。昨日の強い南風の影響で波はやや高かったが、風の向きは浜を左手に見て平行にドリフト移動できるグッドコンディション。
30分ぐらいで強烈なヒキ。これはGT(ロウニンアジのでっかいの)の引き・・・!カヤックがバランスを崩される。立て直そう!と、その瞬間。ブチン!「おおおおっと!」逆に体勢が崩れた。あぶないあぶない。引っくり返るかと思った。
魚からフックが外れて逃げてしまったようだ。カヤックと体とタックルと糸と魚。その全てで微妙にバランスが保たれているファイト時。急なライングレイクなどはかなりバランス的に危ない。
気を取り直し、その辺りを徹底的にさぐること、再び30分。今度はアカハタ30センチオーバー。戦わない魚である。油断しきって、そのままぶら下げようとしたその時、水柱一閃!口からフックが外れ、そのまま海に戻っていきました。なにやってんだか・・・。
かなりテンションはローに。このままボウズで帰るんかなあ・・・。ダイビング船が、人がパドルも持たずに竿を持って釣りをしているわずか10m後ろを全速力で過ぎて行く。おいおい波!波!あわててパドルを左手にローブレイス。なんという常識知らず。追っかけて行って、怒鳴り込んでやろうかと思ったが、意外と遠くのポイントまで行ってしまったので、諦める。そんなテンションの高さは既にない。
それから30分後、もう大分嫌になってきた時、やっと来ました。再びガーラ系のグイグイ引きこんで走る感触。
でも、先ほどのより、小さいね・・・
と軽々上げてみれば、それでも53センチ。上等。今度はフックが2本とも口にガッチリ刺さっている。
今日はこの1匹で十分なので納竿。フクんちの海のある浜に帰る。
早速さばいて刺身の準備。そのまま晩御飯に。
この時期のガーラは脂がのっていて美味い。それでも半身食べたらお腹いっぱい。最後は無理して詰め込んだ。これがGTクラスまで大きかったらと思うと逆にぞっとする。アチコチにお裾分けしてなお残る切り身とアラ。
そしてまた釣りに行けない日々が続く。
それよりはこれぐらいが◎。ご馳走様でした。
仕事もないので、調査を兼ね、久しぶりに自然観察。
今日はユツンへ行ってきた。
天気もよく、爽やか。山道もぬかるまないので大いに助かる。
下界の景色もいい。
昔、上原にいたUn平くんと一緒に自然観察しながら上ったことを思い出す。
ガイド駆け出し(5年目だったか)の青春時代。同じく冬の登山で、この植物はなんだろう・・・?みたいな疑問をいくつも宿題として持ち帰った。その後、アパートで2人、図鑑を繰りながら正解探し。懐かしい・・・。
あの頃咲いていたのと同じ場所で満開していたのが、
セイタカスズムシソウ
この涼しげな透明感に言葉もない。
そして希少な植物ということではもう一つ。イワタバコ科のツノギリソウ。
群生していたが、花は10輪もなかった。少し遅かったかな・・・。
この花は同じ仲間のマツムラソウと同じように花の内側が美しい。
もいっちょ。
マルバハグマ(オキナワテイショウソウの近縁)はまだ蕾。あと1、2週間てとこだった。こっちも見たかったがしょうがない。
滝上では、アクアリウムファン垂涎のミクロソリウム水中化使用。
半端じゃない量のミツデヘラシダ(ミクロソリウム)が流れの緩やかな川の岩の上に生い茂り、同じぐらい川の中にもあった。
そのあたりで飯を食っていて見つけたのが、コツノテナガエビ。夜行性なので、あまり昼間は見かけないが、コンジンテナガエビに混ざって1尾だけ出ていた。ハサミが平たいのがわかるだろうか。
ユツン周辺は今回紹介していない蘭の仲間もとても多くて、本当に希少な植物の宝庫だった。今度は12月の半ばに来てみようと思う。
冬はガイドの修行期間。
じっくり体力も知識も蓄えつつ、脂肪はあまり蓄えないようにしなくては・・・。(笑)